プロフィール

森口 明利(もりぐち あきとし)
1989年福井県生まれ。プロなわとびプレーヤー、一般財団法人日本ジャンプロープ連合理事。
幼少期から運動が得意で、小学校時代はマラソン大会で上位の常連。京都大学工学部および大学院で学ぶ中で本格的にジャンプロープ競技と出会い、その奥深さに魅了される。
世界大会でのメダル獲得、ギネス世界記録更新を経て、2017年には世界初となる7重跳びに成功。その後も8重跳びへの挑戦を続ける。
現在は全国で縄跳び教室やパフォーマンス活動を行うほか、日本ジャンプロープ連合理事として競技の普及・発展に尽力。ジャンプロープをオリンピック競技へと成長させることを目標に活動している。
世界初の7重跳びへ。幼少期から続くジャンプへの情熱

縄跳びと聞くと、多くの人が小学校の体育や休み時間を思い浮かべるだろう。
しかし森口明利が見ている世界は、そのはるか先にある。
世界で初めて7重跳びを成功させた男。
その肩書だけを聞けば、幼い頃から競技一筋だったように思える。しかし意外にも、幼少期は特定の競技に打ち込んでいたわけではなかった。
福井県で育った森口は、子どもの頃から体を動かすことが好きだった。クラブチームや専門的な習い事には所属せず、地域の活動や遊びの中でさまざまな運動を経験してきた。
小学校時代はマラソン大会で常に上位に入り、縄跳び大会でも好成績を収めていたという。
振り返れば、縄跳びとの縁は幼稚園の頃から始まっていた。
卒園アルバムには、大縄の中で跳んだことが楽しかったという思い出が残されていた。
ただ、その時点ではまだ人生を懸ける競技になるとは思っていなかった。
京都大学で出会った、知られざる縄跳びの世界
転機が訪れたのは京都大学進学後だった。
高校時代、体育教師が作った難易度の高い縄跳びカードを初めて完全制覇した経験から、自分には縄跳びの適性があるかもしれないという感覚は持っていた。
大学では数多くのサークルを見学する中で、ジャンプロープ(縄跳び)を行うサークルに出会う。
そこで初めて、縄跳びには無限ともいえる可能性が広がっていることを知った。
見たこともない多彩な技。二本の縄の中を鮮やかに跳ぶダブルダッチ、仲間とも個人でも楽しめる、その多様性。
子どもの頃に知っていた縄跳びとはまったく別の世界がそこにはあった。
最初は純粋な楽しさから始まった活動だったが、次第に競技としての魅力に引き込まれていく。
ダブルダッチの国内大会で優勝を経験し、ジャンプロープの世界大会にも出場。
アメリカで開催された世界大会ではメダルも獲得した。
しかし、その中で森口が本当に惹かれていったのは、多くの選手が目指さない領域だった。
多重跳びである。
誰もやらないからこそ挑戦する
二重跳び、三重跳びなら聞いたことがある人も多い。
だが五重、六重、七重ともなれば話は別だ。
一度のジャンプの間に縄を何回転も通過させるためには、圧倒的なジャンプ力と回転速度が求められる。
森口は大学時代からギネス世界記録の存在を知り、多重跳びの研究を始めた。
自分の身体的特徴。
性格。
競技への向き合い方。
それらを考えたとき、最も自分に合っているのが多重跳びへの挑戦だと感じた。
大学院修了直前には4重跳びのギネス世界記録を更新。
その後も5重跳び、6重跳びのギネス世界記録を更新していった。
だが、それは決して才能だけで成し遂げられたものではない。
体重60kgの身体で150kg近いスクワットを行い、ジャンプ力向上のためのプライオメトリクストレーニングを徹底的に繰り返した。
さらに縄を回すスピードを高めるため、4重、5重、6重跳びを使った高回転トレーニングを日々積み重ねた。
時には身体を痛めるほど自分を追い込んだ。
それでも挑戦をやめなかった。
なぜなら、まだ誰も見たことのない景色がその先にあると信じていたからだ。
安定した会社員を辞め、縄跳び一本で生きる決断

京都大学大学院修了後、森口は地元福井県の企業へ就職する。
研究者としての道も、安定した会社員としての人生も選ぶことができた。
しかし、心の中心にあったのは縄跳びだった。
仕事を続けながら競技活動を続け、メキシコへの赴任も経験する。
標高約2,000mの環境で生活しながらトレーニングを続け、ついに世界初となる7重跳びに成功した。
そして人生最大級の決断を下す。
会社を辞め、プロ縄跳びプレーヤーとして生きることを選んだのだ。
周囲から反対されても不思議ではない挑戦だった。
だが意外にも、多くの人が背中を押してくれた。
もちろん不安はあった。
それでも人生で一度しかできない挑戦を選びたかった。
全国での縄跳び教室、イベント出演、パフォーマンス活動。
競技者としてだけでなく、普及者としての道も切り拓いていった。
世界記録よりも大きな夢
現在、森口は一般財団法人日本ジャンプロープ連合理事として競技の普及に取り組んでいる。
小学校で縄跳びを経験した人はほぼ全員と言っていいほど存在する。
しかし、その先に広がる競技としてのジャンプロープの世界を知る人はまだ少ない。
だからこそ伝えたい。
縄跳びには無限の可能性があることを。
一人で黙々と技を極めることもできる。
仲間と協力してダブルダッチを楽しむこともできる。
他競技のトレーニングとして活用することもできる。
年齢や性別を問わず楽しめる。
そんな魅力を全国へ広げるために活動を続けている。
現在、日本ジャンプロープ連合の会員数は約1,800人。
森口はその輪をさらに大きくしていきたいと考えている。
そしてもう一つの大きな夢がある。
ジャンプロープをオリンピック競技にすることだ。
世界初の7重跳び成功。
数々のギネス世界記録。
それらはすべてゴールではない。
競技を未来へつなぐための通過点に過ぎない。
挑戦が未来をつくる

誰も成功したことがないから挑戦する。
前例がないから諦めるのではなく、前例がないからこそ挑戦する。
森口明利の歩みは、その連続だった。
京都大学卒業後の安定したキャリアを手放したことも。
世界初の7重跳びに挑んだことも。
そして誰も成功したことのない8重跳びへ挑み続けたことも。
森口は約8年間にわたり、8重跳びへの挑戦を続けた。
世界初の7重跳び成功後も、さらなる高みを目指して研究を重ね、身体を鍛え、道具を改良し続けた。
しかし、その壁は想像を超えるほど高かった。
あと一歩届かない。
可能性は見えている。
それでも成功には至らない。
そんな日々が続いた。
それでも挑戦をやめなかった。
なぜなら、自分自身が成功することだけが挑戦の価値ではないと信じていたからだ。
そして2023年7月17日。
山口市立川西中学校3年(当時)の日高煌人君が、人類で初めて8重跳びを成功させた。
その少年は、森口の挑戦をSNSで見ていた一人だった。
森口が発信し続けた映像や記録に刺激を受け、多重跳びの世界へ飛び込み、自らも8重跳びに挑戦し続けた。
そしてついに、人類初の成功者となった。
森口自身は8重跳びを成功させることはできなかった。
しかし、森口はこう考えている。
自分は8重跳びが跳べることを証明できなかった。
けれど、自分の挑戦を見た少年が、その可能性を証明してくれた。
それは決して敗北ではない。
むしろ挑戦が次の挑戦者を生み、その挑戦者が新しい歴史をつくった瞬間だった。
記録はいつか更新される。
世界一もいつか誰かに抜かれる。
しかし、人の心に火を灯した挑戦は消えない。
縄一本から始まった森口の挑戦は、今や全国の子どもたちへと広がり、未来の挑戦者たちへ受け継がれている。
ジャンプロープをオリンピック競技へ。
そして、もっと多くの人にその魅力を届けるために。
森口明利の挑戦は、これからも続いていく。
各種イベント・大会 https://jjru.sport/jjru/events/
