山田涼太(やまだ・りょうた)

2002年、静岡県生まれ。小学6年生でサッカーを始め、中学では部活動と並行してフットサルチームにも所属。静岡県東部リーグで競技としてフットサルに取り組んだ。憧れの選手は内田篤人。高校は静岡県内の強豪校へ進学するも、高校1年時に咳喘息を発症し、約2年間思うように競技ができない時期を経験する。

淑徳大学へ進学後、学園祭でミニゴルフ(バーンゴルフ)を体験したことをきっかけに競技へ。本格的に取り組み始めたのは大学4年。日本選手権を経て日本代表に選出され、アジア選手権では個人5位、団体優勝、ミックスペア3位を獲得した。社会人となった現在も競技を継続し、世界選手権に出場。アジア制覇、そして世界の表彰台を目標に挑戦を続けている。

学園祭の一打が、人生のスイッチを押した

ミニゴルフと聞くと、多くの人は遊園地のパットゴルフを思い浮かべる。
山田涼太も、最初は同じ印象だった。

淑徳大学の学園祭。
体験ブースとして設置されていたミニゴルフコースを見たときも、軽い気持ちだったという。

ところが、実際にパターを握った瞬間、その考えは覆された。

真っ直ぐ打ったつもりのボールが、わずかな傾斜で曲がる。
少し強ければカップを飛び越え、弱ければ途中で失速する。
壁に当てれば跳ね方が変わり、狙いがズレればまったく別の方向へ転がっていく。

思った通りにいかない。

だからこそ、悔しかった。
そして、その悔しさが面白かった。

さらに数回、偶然のように1打でカップインした瞬間があった。
狙いがハマり、吸い込まれるようにボールが穴へ落ちる。

たった一打。
それだけで、胸が熱くなった。

簡単そうに見えて、実は難しい。
難しいのに、答えを探せば一発で決まる可能性がある。

山田の中で、競技者の感覚が目を覚ました。


ミニゴルフは遊びではない 精密な攻略を競うスポーツ

ミニゴルフの基本は、18ホールをより少ない打数で回ること。
ルールだけ聞けば、パターゴルフと似ているように思える。

しかし競技としてのミニゴルフは、レジャーとはまったく別物だ。

大きな違いは、コースが世界共通の規格で作られていることにある。
フェルト、コンクリート、エタニートという3種類の競技コースがあり、それぞれルールブックに規定された形が存在する。

つまり、世界中の選手が同じ型のコースを前提に戦う。

ただし、同じ型であっても、会場が変われば癖が変わる。
床の微妙な傾き、摩耗、湿度、気温。
それらがボールの軌道を左右し、同じ狙い方が通用しないこともある。

さらに、この競技を深くしているのがボールの存在だ。

ミニゴルフのボールには、弾むもの、弾まないもの。軟らかいもの、硬いもの。滑るもの、引っかかるものがあり、表面や重さ、サイズも微妙に違う。
選手は状況に応じてボールを選び、狙い方を組み立てる。

真っ直ぐ打つだけではない。
壁を使う。
跳ね返りを計算する。
角度を作り、戻りを利用する。

まるでビリヤードのように、数学的な思考が求められる。

だからこそ、18ホールは18の知的勝負になる。

山田は、この競技の面白さに、気づけば引き込まれていった。


サッカー王国・静岡で育った少年

山田涼太は2002年、静岡県で生まれた。

小学6年生でサッカーを始め、中学では部活動に打ち込みながら、友人の誘いでフットサルにも触れた。
週末には静岡県東部リーグで試合に出場し、フットサルを競技として経験していく。

憧れの選手は内田篤人。
遠い親戚にあたる存在でもあり、サイドバックとしてプレーする山田にとって特別な存在だった。

高校は静岡県内の強豪校へ進学。
チームは県大会でも上位に入り、全国を目指す環境だった。

しかし、そこで山田は人生の壁にぶつかる。


咳喘息が奪った2年間 それでも辞めなかった理由

高校1年生の6月、山田は咳喘息を発症した。

走るだけで咳が止まらない。
心拍数が上がればプレーを続けられない。
病院に通う日々が続き、競技から離れざるを得なかった。

まともにサッカーができない時間は、約2年間。

辞めようと思ったこともある。
泣いたこともある。

それでも山田は、部活を辞めなかった。

サッカー推薦で入学していたこともあり、簡単に退くわけにはいかなかった。
そして何より、親の言葉が背中を押した。

辞めるのはもったいない。
できることがあるはずだ。

山田は選手としてではなく、チームを支える側に回った。
水を準備し、ボールを片付け、コートを整える。
雑用をこなしながら、自分にできる範囲で自主トレも続けた。

動けない時間が長かったからこそ、スポーツができることの価値を知った。
この経験が、後に挑戦を続ける土台になっていく。


大学進学 フットサルの日々とミニゴルフとの出会い

高校卒業後、山田は淑徳大学へ進学した。

体調も回復し、フットサルサークルに参加。
仲間と楽しみながら、代表としてチームをまとめる役割も担った。

そんな大学生活の中で出会ったのが、学園祭のミニゴルフ体験だった。

当時のミニゴルフ部は部員が少なく、存続の危機にあった。
山田は先輩に頼まれ、部の名前を残すために入部する。

しかしその時点では、まだ競技としてのめり込むほどではなかった。

フットサルサークルが忙しく、ミニゴルフを本格的にやる時間がなかったからだ。

それでも、学園祭で味わった悔しさと快感は、心の奥に残り続けていた。


大学4年で火がついた 代表を目指す挑戦の始まり

転機が訪れたのは大学4年生。

同学年の仲間を通じて、ミニゴルフには日本代表が存在することを知った。
そして競技人口が多くない分、努力次第で世界に挑める可能性があると聞いた。

その年、春には日本選手権が開催される予定だった。

目標ができた瞬間、山田のスイッチが入る。

やるなら、本気でやる。

そこから山田は毎日のようにコースに通い、練習を積み重ねた。
1人なら20分で回れるコースも、狙い方やボールを試していけば何時間でもかかる。

打って、外して、考えて、また打つ。

その繰り返しの中で、得意なコースと苦手なコースが見えてくる。
狙い方は一つではないことも知った。

真っ直ぐだけではなく、壁を使う。
角度を作る。
戻りを計算する。

ミニゴルフは、攻略を探すスポーツだった。


初めての日本選手権 散々な結果が突きつけた現実

迎えた初めての日本選手権。
山田の結果は散々だった。

練習はしてきた。
だが大会の緊張感と、コースの癖への対応が追いつかなかった。

自分でも全然ダメだったと思ったという。

しかし、その後に山田はアジア選手権の日本代表に選出される。

上位選手が出場を辞退した事情もあった。
だが協会としては、若手を育てたいという期待があった。

山田はその選出を、チャンスではなく責任として受け止めた。

ここで終わるわけにはいかない。
恥ずかしいプレーはできない。

山田の挑戦は、ここから加速していく。


タイ・チェンマイ 国歌と悔しさを味わったアジア選手権

Screenshot

初めての国際舞台は、タイ・チェンマイで行われたアジア選手権。
日本代表は男女合わせて8名。多くが社会人選手で、学生は少数だった。

個人戦だけでなく、団体戦、ミックスペア、マッチプレーもある。
山田にとって、すべてが初めての経験だった。

結果は、個人5位。
団体戦は優勝。
ミックスペアは3位。

団体優勝の表彰台で国歌が流れた瞬間、山田は胸が熱くなった。
日本代表として戦った実感が、全身を満たしていった。

しかし同時に、個人5位という結果が悔しかった。

メダルが欲しかった。
優勝を目指していた。

アジアでは勝てる。
その可能性を感じたからこそ、悔しさは強く残った。

山田の負けず嫌いな性格に、火がついた。

次は必ず取り返す。
そう誓った。


社会人になり練習は週1へ それでも挑戦を止めない

大学卒業後、山田は社会人になった。

当然、練習量は激減する。
大学時代のように毎日コースに立つことはできない。

それでも山田は、週1回の練習を守り続けた。

その1日を無駄にしないために、練習日は7時間ほど打ち込み続ける。
家ではフォームの確認や動画分析を行い、イメージトレーニングを重ねた。

時間がないからこそ、工夫する。
限られた環境で結果を出す。

山田の挑戦は、競技だけではなく生活そのものになっていった。


新卒1年目で上司に直談判。世界選手権への道を切り拓く

2025年、山田は世界選手権への出場を掴む。

ただし世界大会は、練習期間を含めて約2週間の遠征になる。
新卒1年目の社会人にとって、簡単な話ではなかった。

山田は配属された直後、上司に直談判する。

自分はミニゴルフ日本代表であり、世界選手権に出場する。
どうしても休みが必要だ。

上司は渋い反応を見せた。
当然だろう。

しかし山田が所属していたのは、登山やアウトドア関連の商品を扱う部署。
スポーツとの親和性が高いチームだった。

条件は一つ。
競技を仕事に活かすこと。

将来的にミニゴルフツアーなど、ビジネスにつながる可能性を作れるなら行っていい。

山田はその条件を受け入れ、世界挑戦の切符を勝ち取った。


世界は別次元だった 83位が突きつけた現実

世界選手権で山田は、圧倒的な差を思い知る。

個人戦は99人中83位。
ミックスペアは28位。

数字だけ見れば悔しい結果だ。

だがヨーロッパ勢を除けば、山田は上位に食い込んでいた。
それほどまでに、ヨーロッパは強い。

トップ選手は、ほぼすべてのホールを1打で沈める。
18ホールすべてを1で決める選手すらいる。

山田の平均スコアは、エタニート33、コンクリート35.3。
トップ選手はエタニート20、コンクリート26。

同じ競技をしているとは思えないほどの差だった。

アジアで感じた可能性は、世界では通用しなかった。
その現実が、山田をさらに奮い立たせる。


ドイツ人コーチが教えてくれた 世界の常識

世界大会での収穫は、技術以上に学びだった。

ドイツはミニゴルフ界で世界最強クラス。
そのドイツ人コーチが帯同し、日本選手団に助言を与えてくれた。

山田はそこで、準備の精度の違いを知る。

ボールを温める。
気温によって反応を変える。
転がりを管理する。

日本ではそこまで意識していなかった部分を、世界の選手は当たり前にやっていた。

この経験は、山田の意識を変えた。

勝つために必要なのは、打つ技術だけではない。
整える技術が必要なのだ。


28というスコアが残した希望

世界選手権で山田が持ち帰ったのは、悔しさだけではない。

コンクリートコースで出した28というスコア。
これはアジアの選手でも簡単には出せない数字だった。

トップ選手の最高が24程度だと聞き、山田は思った。

自分にも可能性はある。

ただし課題も明確だった。
ラウンドごとの波が激しい。

良いときは28。
悪いときは42。

そして最大の課題はメンタルだ。

外したあとに引きずってしまう。
一度崩れると止まらない。

世界で勝つには、技術と同じくらい精神の強さが必要だと知った。


世界を知ったからこそ、国内で結果が出始めた

帰国後、山田は国内の月例会で表彰台に入る回数が増えていった。

越谷、淑徳、それぞれで行われる月例会。
その中で3位以内に入る機会が出てきた。

メンタルはまだ課題が残る。
しかし技術は確実に伸びている。

世界を経験したことで、フォームが改善され、狙い方の引き出しが増えた。
2週間の挑戦は、確実に山田を変えた。


コースが少ない日本 普及というもう一つの挑戦

ミニゴルフは日本ではまだ環境が整っていない。

横浜ワールドポーターズのコースは撤去され、気軽に体験できる場所は限られる。
越谷にはキッズUSランドの一角にコースがあるが、情報が十分に発信されていない。

競技として知ってもらう入口が少ない。
それが最大の課題だ。

だからこそ山田は、自ら発信を始めた。

InstagramやFacebookで大会の様子を投稿し、フォロワーは1000人を超えた。
海外のフォロワーも増えつつある。

競技者でありながら、競技を広める側としての挑戦も始まっている。


目標はアジア優勝 そして世界の表彰台へ

山田の今年の目標は、日本選手権とアジア選手権での個人優勝。
そして最終的には、世界選手権で表彰台に立つことだ。

世界との差は大きい。
だが可能性がないわけではない。

世界で28を出せたラウンドがある。
だからこそ、そこを再現し続けられれば、未来は変わる。

挑戦の道は、まだ続いている。


1打で勝負が決まる競技で 山田涼太は前へ進む

ミニゴルフは静かなスポーツだ。

しかし、その静けさの中には、1打で順位が変わる緊張がある。
1ミスで流れが崩れ、メンタルが結果を左右する世界がある。

高校時代、咳喘息で競技を奪われた時間があった。
だからこそ山田は、スポーツができることの尊さを知っている。

学園祭の体験から始まり、半年で日本代表へ。
社会人になっても週1回の練習で世界へ挑む。

環境が整っていない競技だからこそ、自分で道を切り拓く。
その姿は、まさにNEXT STORIESが伝えたい挑戦者そのものだ。

目指すのはアジアの頂点。
そして、その先の世界の表彰台。

遊びでは終わらない18ホールで、山田涼太は今日も挑戦を続けている。



埼玉県でミニゴルフ月例会・体験会を開催中 詳細はミニゴルフスポーツ協会 公式サイトをご確認ください

NPO法人 日本ミニゴルフスポーツ協会

淑徳大学 バーンゴルフ部