関口 太郎 (せきぐち たろう)

家族に、仲間に、支えてくれるすべての人に、今も背中を押されて。

かつて世界の舞台を夢見て、そして本当にその扉をこじ開けた男、関口太郎。49歳となった今も、彼はサーキットを走り続けている。ただ速さを求めていた若き日とは違う。今は、チームの想い、応援してくれるすべての人のために、サーキットを走り続ける。

モータースポーツ一家に生まれ

「これ、何のこと?」
小学校2年生の時、関口太郎が「将来の夢」を作文に書いたとき、担任の先生は首を傾げた。
そこに書かれていたのは、「世界GPで走る」という言葉。いまのようにMotoGPが一般に知られている時代ではなかった。

しかし、関口家ではモータースポーツは特別な存在だった。
彼が生まれたころ、父はレース用バイク「TZ250」を購入するほどの熱心なバイクファン。母に「こんな危ないもの!」と叱られ、すぐに手放すことにはなったが、それでも家には世界チャンピオン、ケニー・ロバーツやフレディ・スペンサーのレースビデオが何本も並んでいた。

「何十回も繰り返し見ました。バイクに乗ってる姿が、ただただかっこよくて」

太郎少年は画面の中でバイクを自在に操る英雄たちに、心から憧れた。当時はテレビでの中継もない時代だ。
それでも、彼の心にははっきりとしたビジョンがあった。

「いつか、あの舞台で走りたい」

ミニバイクから見えた、才能の片鱗

中学生になると、ついにミニバイクレースにデビューする。
最初のレース、革ツナギが重く感じられた。緊張と興奮が入り混じるなか、スタートの合図が鳴った。

「怖さ?なかったですね。とにかく、前に行きたかった」

そのレースでいきなり入賞。誰もが驚くセンスの良さだった。
そこから、関口の道は一気にレース中心になっていった。

挫折と飛躍――全日本ロードへの道

1992年、高校生となり本格的にサーキットデビュー。
各地のサーキットを転戦し、ポイントを積み上げる。初めは軽量の80ccからスタートしたが、自分の体格に合わせて125ccに。そして1995年には全日本ロードレース選手権GP250クラスにステップアップする。

だが、速さを求めすぎるあまり、転倒が絶えなかった。
転倒し骨折。レースを何ヶ月も欠場することも幾度となくあった。

「レースに出られない期間が、本当に苦しかった。…心が、折れそうでした」

それでも、彼はサーキットに通い続けた。リハビリをしながら、ピットの片隅で先輩たちの走りを見つめ、ノートにメモを取り続けた。

2000年、努力が実を結ぶ。初優勝を含むランキング4位。
トップライダーの仲間入りを果たす。

すべてを賭けた、覚悟の2001

当時のレースシーンは各メーカーの威信をかけた戦い。ホンダやヤマハのマシンにのり、良い成績を残すとパーツやマシンの支援を受けられメーカー契約というワークスライダーになり、全日本でタイトルを取り、そして認められて世界へ挑戦するという流れが一般的だった。

しかし、関口はメーカーのサポートは受けているが「ワークスライダー」ではない。
このままでは、世界への道は簡単ではない。

「自分でやるしかない」

関口は腹を決めた。スポンサーを探し、タイヤを選び、メカニックを集める。自分が中心となって「勝つためのチーム」を作り上げた。

「バイクって、エンジンパワーだけじゃダメなんです。タイヤとのマッチング、エンジンの特性、整備の精度、全部が揃って初めて勝てる」

そして人間力が大事だ。いくら速くてもチームスタッフ、スポンサーと人間関係がうまくできなければ好成績は残せない。決して満足ではない資金の中で、妥協は一切しなかった。

メーカー系チームからはあからさまな包囲網が敷かれた。
コース上では激しい攻防。時には、言い争いになることもあった。

「勝たせたくない、って空気は、ビシビシ伝わってきました」

それでも関口は動じなかった。
一戦、一戦、確実にポイントを積み重ね、ついに――

2001年、全日本ロードレース選手権GP250クラス、チャンピオン獲得。
自らの手で、世界への扉をこじ開けた瞬間だった。

世界へ――孤独と闘った日々

2002年、念願のFIMロードレース世界選手権参戦。だが、現実は甘くなかった。

何もかも初めてづくし、コースもすべて初めて。
さらには怪我も重なり、出走できたのはわずか9戦のみ。

「世界は、別格でした。本当に、甘くなかった」

翌年はチーム体制も整わず、ヨーロッパ選手権を走ることに。
だが、ここで関口は底力を見せる。全8戦中6回ポールポジション、すべてのレースで優勝という圧倒的な成績を叩き出し、再び世界への切符を手にする。

試練――2005年、支援の奇跡

2005年、関口は新たなチームと契約し、再起を誓った。
ところが、開幕直前になって大口スポンサーが音信不通に。予定されていた資金が入金されず、このままでは走れない事態に追い込まれる。

「こんなことって、あるんだな…と、呆然としました」

事態を知った知人たちが奔走し、新聞やインターネットで事情が広まった。
すると、全国の人々から支援金が次々と振り込まれた。

数百円、数千円、そして時には数万円。振込明細は、記帳するだけで何冊も必要になるほどだった。

「たぶん、一生忘れないです。…あのとき、背中を押してもらったから、また走れた」

人の想いが、関口をサーキットに戻した。

「今」を走る理由

49歳になった今も、関口は走り続けている。
世界を目指した20代とは、目的は違う。

「もちろん20年前と比べて絶対的な体力は落ちました。でも、感覚はまだ衰えていない」

今は、タイヤメーカーやチームの開発ライダーとしても重宝される存在だ。
精密なフィードバック、微妙なマシンセッティングの感覚。30年を超えるキャリアで磨かれた“職人の技”は、いまも衰えない。

そして何より、支えてくれる家族、スポンサー、メカニックたちのために――

「たとえ4位でも、8位でも、みんなが完走を喜んでくれる。それが嬉しいんですよ」

かつては孤独だったサーキットに、今はたくさんの笑顔がある。

挑戦に、終わりはない

技術は進化し、バイクも電子制御化が進んだ。
だが、どれだけデジタル化が進んでも、サーキットに立つ気持ちは変わらない。

「挑戦に、終わりはない。だから今日も、バイクに乗る」

49歳、関口太郎。
少年の日に描いた「世界を走る」という夢を胸に、
支えてくれるすべての人の想いを乗せて、今日もスタートラインに立つ。

ロードレーサー関口太郎オフィシャルサイト

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