
坪 颯登(つぼ・はやと)
2003年5月21日生まれ。青森県むつ市出身。日本体育大学フェンシング部。男子サーブル日本代表。
幼少期に父の影響で競技に触れ、地元から東京へと飛び込み育成を受ける。怪我を乗り越え、2024年に全日本フェンシング選手権大会個人戦で日本一。2025年FISUワールドユニバーシティゲームズ男子サーブル団体で銅メダル。さらに2025年の男子サーブルワールドカップ団体で歴史的な銅メダル獲得に貢献。ロサンゼルスオリンピック出場を目指す。
3歳の遊びが、夢を抱く心へ
青森から世界へ挑み続けるフェンシング坪颯登
青森県むつ市という、のどかな地方都市。
そこに育った少年が、フェンシングの剣を握ったのは3歳のときだった。
チャンバラのような楽しさが、悔しさと勝ちへの執念に変わる瞬間があった。
ふるさとを離れ、同世代のトップ選手と切磋琢磨し、怪我という深い挫折を経てもなお、彼はいま世界を見据える。
坪颯登の物語は、夢を抱き続ける者たちの希望そのものだ。
ふるさとの温もりと好奇心
青森で育った坪は、どこか温かさのある環境の中で幼少期を過ごした。
地域の人々の応援が自然と日常に寄り添うような場所だ。
父は高校でフェンシング部の顧問も務めていた。
遊びで連れて行かれた体育館には、剣を持つ人たちの世界があった。
最初はプラスチックの剣で兄と戯れるような遊び。その中に、坪のスポーツへの好奇心は自然と宿っていった。
学校が終われば走り回り、体を動かすことが好きだった。
フェンシングに限らず、どんなスポーツでも楽しんできた日々が、後の原動力になっていく。

兄との勝負がくれた最初の悔しさ
5歳の頃、初めてまともな試合に出た坪は、そこで兄に負けた。
その瞬間、悔しさが胸の奥に強烈に宿った。
フェンシングのルールもよくわからない。
ただ、負けたくないという感情がそこにはあった。
そんな単純な思いが、やがて彼を本当の勝負の世界へ導いていく。
勝つために何が必要か。
どうすれば勝てるのか。
その問いは、幼いながらに彼の中で根を張っていった。
地元のチームが育んだ競技意識
幼い頃に兄以外のライバルがいた環境は特別だった。
坪の地元にフェンシングチームができ、周囲に同年代の子どもたちが集まった。
7〜8人ほどの仲間と練習し、競い合う日々は、遊びの延長ではなく競技として向き合う転機になった。
小学校1年から3年まで、学校が終わると練習に向かう日々。
練習の中で芽生え始めた勝負への意識が、彼の競技人生の基礎を作っていった。
バスケットボールとの両立、選択としてのフェンシング
小学校3年でバスケットボールに夢中になった坪は、小学校6年までフェンシングとバスケを両立した。
身長も伸び、バスケは全国大会へ進むなど成果もあったが、フェンシングでの芽が確かに育っていた。
父との話し合いの末、坪はフェンシングに絞る決断をする。
環境や競技人口が大きく異なる中で、結果が残せる競技に賭けるという判断。
幼いながらの冷静で強い決断は、後の挑戦につながる大きな一歩となった。
サーブルとの出会いが競技世界を広げた
中学2年のとき参加した強化事業で、坪は男子サーブルと出会った。
これまで経験してきたフルーレやエペとは違い、スピード感と瞬発力のあるサーブルは、彼自身の身体的特徴と合致した。
直感的に楽しいと感じた感覚は、そのまま彼の主戦種目となった。
ここから坪は、フェンシングの世界で生きる道をより強く自覚していく。
ふるさとを離れ、日の丸を目指す日々

より強くなるためには環境が必要だった。
青森から東京へ、ふるさとを離れる決断。
それは中学3年生という年齢にして、大きな挑戦だった。
JOCエリートアカデミーという育成環境で、彼は同世代のトップアスリートたちと共同生活を送ることになる。
卓球の張本智和や、レスリングの髙橋海大など、世界で戦う同級生と毎日を過ごしたことは、坪にとって大きな刺激だった。
競技は違えど、勝負と向き合い、積み上げる日々の重さを誰よりも身近に感じる環境は、彼の競技者としての覚悟を一段と強くしていった。
競技者として生きることは孤独ではない。
同じ志を持つ仲間が、彼の挑戦を押し上げてくれた。
怪我という深い挫折と、戻るという決断
順調にキャリアを積んでいた高校時代、思いもよらぬ試練が訪れる。
高校3年生の11月、左膝を大きく痛めたのだ。半月板の損傷という重い怪我は、競技者にとって致命的とも言える時間を彼にもたらした。
復帰までには約1年を要した。
その間、同級生たちは競技の場で結果を残し続ける中、坪はリハビリという黙々とした日々を過ごした。
焦り、悔しさを何度も感じたという。
だが彼は、ここで歩みを止めなかった。
自分の力を信じること。
焦らず、積み上げること。
その信念が、再び彼をフェンシングの場へと戻した。

復帰後の苦悩と、小さな優勝の確信
復帰直後、大学の試合では思うような結果は出なかった。
だがその後、ジュニアカテゴリーのランキング対象試合で個人優勝を果たした。
苦しい時期を耐え抜いた先にある小さな勝利は、坪に「やれる」という確信を与えた。
そしてその後も怪我や思わぬ出来事に見舞われるも、彼は前を向き続けた。
日本一の瞬間、誰よりも喜んだ人たち

大学3年で迎えた全日本フェンシング選手権。
坪は個人戦で優勝し、日本一に輝いた。
怪我を乗り越え、歩み続けてきた証がそこにあった。両親が涙を流し、兄が抱きしめてくれた。
その喜びは本人以上に大きく伝わった。
青森に戻り、支えてくれた人たちに報告したとき。
あの頃の小さな少年が、ふるさとを離れ、幾多の困難を乗り越えて手にした勝利だった。
世界の舞台へ、勝負は続く

世界は厳しい。
海外に出れば、体格や戦術、環境は異なる。
同じ感覚で戦っても通用しない。
そんな世界の現実を知った上で、坪は前へ進む。
2025年11月、男子サーブルワールドカップの団体戦で日本は銅メダルを獲得した。
これは日本フェンシング界にとって歴史的な快挙だ。
坪は5対0という劣勢から流れを切り替え、仲間とともに勝利へ導いた。
勝負は技術ではなく、心の切り替えから始まる。
そのことを彼は自らの競技人生で証明してみせた。
目指すはオリンピック
坪の目標は明確だ。
ロサンゼルス2028オリンピックの舞台で戦うこと。
日本国内のライバルに勝つだけではなく、世界ランキングを上げ続ける必要がある。
そのために、彼は日々強くなるための選択を積み重ねていく。
支えてくれた人たちへの恩返しを胸に、彼の挑戦は止まらない。
フェンシングの魅力を伝えたい

最後に坪はこう語る。
フェンシングは見た目のスピード感や攻防の美しさが魅力だと。
剣を持ち、相手と向き合い、瞬間瞬間で戦略を切り替える。
その一瞬の駆け引きには、観る者を惹きつける力がある。
まずは見た目の格好良さからでもいい。
そこから面白さはどんどん広がっていく。
――一瞬の閃きが未来を変える。
坪颯登はそう語る。

