
小川直樹(おがわ・なおき)
1965年神奈川県川崎市生まれ。日本体育大学出身。
大学時代は関東大学リーグ、インカレなど主要大会で無敗優勝を経験。卒業後は日本鋼管(NKK)に入社し、日本リーグ優勝を2度経験。日本代表にも選出された。
1999年から知的障がい者バスケットボールであるFIDバスケットボールに関わり、日本FIDバスケットボール連盟専務理事、日本男子代表ヘッドコーチとして競技の普及と強化を担う。
2011年にはbjリーグ横浜ビー・コルセアーズ初代GMに就任。現在はBリーグ川崎ブレイブサンダースのチームマネジメントにも関わりながら、FIDバスケットボールの発展に取り組んでいる。
靴ひもから始まった代表チーム

体育館の外には保護者が並んでいた。
選手たちはコートに出る前、靴ひもを結んでもらっていた。
その光景を見た瞬間、小川直樹は驚いた。
これでは競技にならない。
FIDバスケット日本代表の強化合宿での出来事だった。
小川は選手たちと向き合い、一つひとつの行動を見直していった。
自分のことは自分でやる。
スポーツの前に、人として自立すること。
それが小川の指導の出発点だった。
だがそれは同時に、小川自身の人生を大きく変えていく始まりでもあった。
日本代表だった男の原点
神奈川県川崎市で育った小川は、もともと野球少年だった。
しかし中学でバスケットボールと出会い、その魅力に引き込まれていく。
高校、大学と競技に打ち込み、日本体育大学へ進学。
当時のチームは国内でも屈指の強豪だった。
大学時代、小川は無敗優勝を経験する。
関東大学リーグ、トーナメント、インカレ。すべてを勝ち切った。
スター選手が並ぶ中で、自身は決して目立つ存在ではなかった。
それでも勝つことが当たり前の環境の中で、競技に対する基準は大きく引き上げられていった。
卒業後は日本鋼管(NKK)に入社する。
名門企業チームでのキャリア
当時の日本バスケットボール界は、まだプロリーグが存在しない時代だった。
トップ選手の多くは企業チームに所属し、会社員として働きながら競技を続けていた。
その中でも日本鋼管は、日本リーグ優勝を重ねる名門チームだった。
小川はその一員として長くプレーし、日本リーグ優勝を2度経験する。
さらに日本代表にも選ばれ、国際舞台も経験した。
企業に所属するということは、競技引退後も含めて守られているということでもある。
安定した収入
社会的な信用
将来への安心
多くの選手がその環境の中でキャリアを築いていく。
小川もまた、その道を歩むはずだった。
しかし、その人生はある出会いによって大きく動き出す。
知らなかった世界との出会い
1998年、神奈川県で開催された国体。
そこで小川は、知的障がい者のバスケットボールと出会う。
当時、この競技の存在をほとんど知らなかった。
大会を視察したときの印象は強烈だった。
コートでは、普通のバスケットボールが行われていた。
自分が想像していた障がい者スポーツとは違っていた。
もちろん個人差はある。
それでも選手たちは真剣にプレーしていた。
できない競技ではない。
むしろ可能性がある。
その感覚が、小川の中に強く残った。
価値観を変えた現場

代表チームに関わり始めて間もない頃、小川はある違和感を覚える。
選手たちは、自分で準備をするという習慣が十分に身についていなかった。
その背景には、この世界特有の環境があった。
守られて生きているという感覚が蔓延している。
やってもらって当たり前という感覚が強い。
その結果として、感謝の気持ちを持つ機会が少なくなる。
ありがとうございますという言葉が自然に出てこない。
しかしそれは、社会の一員として生きていく上で非常に重要なことでもある。
小川はそこに課題を感じた。
これは能力の問題ではない。
環境の問題だ。
だからこそ、変えていく必要がある。
自分でやることを覚える。
自分で考えることを覚える。
そして、人に支えられていることに気づくこと。
その積み重ねが、競技だけでなく人生そのものを変えていくと考えた。
安定したキャリアを捨てた決断
FIDバスケットボールに関わる中で、小川は確信する。
彼らに必要なのは、バスケットの技術だけではない。
社会を生きる力だ。
そのためには、競技の指導だけでは足りない。
生活の中から変えていく必要がある。
小川は決断する。
会社員としての安定したキャリアを手放すことを。
日本鋼管という名門企業で築いてきた立場。
その先にある安定した人生。
それらを捨てて、知的障がい者の支援の世界へ飛び込んだ。
働く場所はグループホーム。
夜は生活支援の仕事をし、
昼はバスケットの指導と連盟の活動に取り組む。
決して楽な道ではなかった。
それでも、小川にとっては必要な選択だった。
生活と競技がつながる現場
グループホームでの生活は、指導そのものだった。
食事の仕方
皿の洗い方
時間の使い方
人との関わり方
そのすべてが、選手たちの成長につながっていく。
その中には日本代表の選手もいた。
生活と競技は切り離されたものではない。
コートの中で求められる判断力や責任感は、日常生活の中でも必要になる。
バスケットボールのコートも社会も同じ。
ルールがあり、判断があり、責任がある。
小川はその考えを一貫して伝え続けている。
世界と戦うという挑戦

FIDバスケットボール日本代表は、決して恵まれた環境ではない。
強化期間は限られ、選手たちはそれぞれ仕事を持ちながら競技を続けている。
それでも、小川はチームを強化し続けてきた。
積み重ねの中で、チームは少しずつ成長していく。
そして世界大会でメダルを獲得するまでになった。
かつては届かないと言われていた領域だった。
時間はかかる。
それでも変わる。
その事実を、小川は証明してきた。
bjリーグ横浜GMとしての挑戦
2011年、小川はプロバスケットボールの世界にも挑戦する。
bjリーグに新規参入する横浜のクラブで、初代GMを務めることになった。
ゼロからチームを作る。
選手を集め、組織を作り、スポンサーを開拓する。
簡単な仕事ではない。
それでもクラブは短期間で結果を出す。
リーグ優勝。
プロクラブとして確かな実績を残した。
二つの世界をつなぐ役割

現在、小川はFIDバスケットボールの活動と並行しながら、トップレベルのバスケットボールの現場にも関わっている。
一見すると、まったく異なる二つの世界。
しかし小川にとっては、どちらも同じバスケットであり、つながっているものだ。
トップカテゴリーの現場では、競技としての完成度や組織運営、選手育成の考え方が常に更新されている。
その環境で得た知見は、FIDバスケットにも還元されている。
どのようにチームを作るのか。
どのように選手を成長させるのか。
どのように競技の価値を高めていくのか。
それらは障がいの有無に関わらず、本質的には同じだ。
一方で、FIDバスケットの現場で得た経験もまた、競技の本質を見つめ直す機会になる。
人と向き合うこと。
成長を信じること。
できることに目を向けること。
小川は二つの世界を行き来しながら、その価値をつなぎ続けている。
できることを伸ばす

小川が選手に伝えている言葉がある。
できないことを探すのではない。
できることを伸ばす。
その積み重ねが、自信になる。
そして自信は、社会の中で生きていく力になる。
スポーツは、人を変える力を持っている。
挑戦は続く

FIDバスケットボールにはまだ多くの課題がある。
競技の認知
普及
組織づくり
それでも、小川は前を向く。
スポーツで人生は変わる。
その瞬間を、何度も見てきた。
だから続ける。
バスケットを通じて、人が変わる。
人生が変わる。
その可能性を信じて。
小川直樹の挑戦は、これからも続いていく。
