稲田宗行(いなだ・むねゆき)
1979年、鹿児島県・奄美大島生まれ。大阪で育つ。幼少期からソフトボールに打ち込み、中学からはバスケットボールを始める。高校では指導者不在の中、自分たちでチームをつくり上げ、大阪府ベスト16進出を経験。調理師専門学校へ進学し料理人を志す一方、高校時代から始めた音楽に魅了され、ベーシストとしてプロを目指す。27歳で上京し、2015年にメジャーデビューを果たすが、その直後に進行性の視覚障がいを発症。音楽、料理の仕事から離れることとなる。
一時は人生のどん底を経験するも、パラスポーツとの出会いをきっかけに再び前を向き始める。現在はSFIDA世田谷BFCでブラインドサッカーに取り組みながら、子どもたちへの絵本読み聞かせや体験会などを通じ、障がい理解を広げる活動にも力を注いでいる。
見えなくなった先に見つけた、新しい挑戦
夢を追い続けた音楽人生。料理人として歩もうとした青春。そして突然告げられた進行性の視覚障がい。大切に積み上げてきたものを一つずつ失い、稲田は一度、人生そのものを諦めかけたことがある。
それでも、立ち止まったままではいなかった。ブラインドサッカーとの出会いは、単に新しい競技と出会ったということではない。それは、もう一度自分らしく生きるための挑戦だった。音楽家からブラインドサッカー選手へ——その歩みは遠回りだったわけではなく、一つひとつの経験が今につながっている。
自然の中で育まれた挑戦心
鹿児島県・奄美大島で生まれた稲田は、3歳頃まで島で過ごした。海と川が遊び場で、自然の中を自由に駆け回る毎日だったという。その後、大阪へ移り住むと生活は大きく変わる。
小学生になるとソフトボールに夢中になり、キャプテンとしてチームをまとめる存在になった。中学校では野球部がなかったことから、バスケットボール部へ入部する。きっかけは、当時世界中の少年たちが憧れたマイケル・ジョーダンだった。ちょうど漫画「SLAM DUNK」の連載が始まり、日本中にバスケットボールブームが広がっていた時代でもある。
高校では地域選抜の仲間たちと同じ学校へ進学したものの、チームには十分な指導者がいなかった。普通なら不利な環境だが、彼らは自分たちで考え、自分たちで練習を組み立て、自分たちで強くなっていった。大阪府ベスト16まで勝ち進んだ経験は、競技力だけでなく、自ら考えて道を切り拓く姿勢を稲田に育てた。この頃から、誰かに与えられるのではなく、自分自身で挑戦をつくり出す人生がすでに始まっていたのかもしれない。
料理人から音楽の世界へ
高校卒業後は調理師専門学校へ進学し、料理人を目指した。イタリアンを中心に学び、料理の道へ進むはずだった。しかし、高校2年生の文化祭で人生を変える出来事が起こる。モテたい——そんな軽い気持ちでギターを始め、仲間とバンドを結成したのだ。
音楽は想像以上に面白かった。料理人を目指しながらも、生活の中心は次第に音楽へと移っていく。アルバイトや飲食店勤務を続けながらライブ活動を重ね、プロミュージシャンになる夢を追い続けた。27歳になる年、勝負の場所を東京へ移す。大阪では一定の活動実績を積んでいたが、プロとして生きるには東京で勝負するしかないと考えたからだ。
決して順風満帆ではなかった。思うような結果は出ず、何度も諦めかけた。それでも音楽だけは手放さなかった。33歳で新たなバンドに加入すると状況は一変し、2015年、ついにデビューを果たす。何枚ものCDをリリースし、ようやく夢へのスタートラインに立った。武道館で演奏する——そんな夢も、現実味を帯び始めていた。
夢の舞台、その直後に訪れた現実
夢が動き始めた、その矢先だった。ライブハウスのステージが見えない。譜面が読めない。暗い会場ではメンバーの姿すら分からない。最初は疲れだと思っていたが、違和感は日に日に大きくなっていく。
病院で告げられたのは、進行性の視覚障がいだった。検査の結果、すでに視神経細胞の約95パーセントが失われている状態で、見えている範囲はトイレットペーパーの芯ほどしか残されていなかったという。
それでも諦めたくなかった。音楽を続けたい、ステージに立ち続けたい——そんな思いで活動を続けたが、視野は急速に狭まり、演奏を続けることは難しくなっていった。生活を支えていた料理の仕事も同じだった。食材の傷みが分からない。肉の焼き加減が判断できない。料理人として最も大切な感覚を、稲田は失っていった。
音楽も料理も、人生をかけてきたものを一度に失う。積み上げてきた夢は、静かに幕を閉じることになった。
人生を変えた一言
音楽も失った。料理も続けられなくなった。将来も見えない。すべてを失ったように感じた稲田は、一度大阪の実家へ戻る。約2か月、何をしていいのか分からない日々が続いた。東京へ戻る理由も見つからず、このまま実家で暮らしていくしかないのか——そんな思いを抱えながら過ごしていたある日、一つのテレビ番組が人生を大きく変えることになる。
24時間テレビだった。全盲の少年が、ミュージシャンとともにドラムを演奏していた。演奏の上手さよりも、その姿勢に心を動かされたという。
まだ挑戦している人がいる。まだできることはある。その瞬間、止まっていた時間が動き始めた。
もう一度東京へ行こう。もう一度、自分にできることを探そう。そう決意し、視覚障がい者向けの職業訓練を受けながら就職活動を始めた。しかし現実は甘くなかった。年齢は40歳目前。30社近く受けても採用されず、貯金も底をついた。大阪へ戻ることを決意し、退去届まで作成したという。
その提出予定日の前日、一本の連絡が入る。現在勤務する会社からの採用通知だった。あと一日遅ければ、人生はまったく違う方向へ進んでいたかもしれない。人生には、そんな偶然とも必然とも思える瞬間がある。
障がいを受け入れるきっかけ
仕事が決まり、生活は少しずつ落ち着き始めた。そんな頃、幼なじみから思いがけない言葉をかけられる。「運動が得意なんだから、パラスポーツをやってみたらどうだ」。ちょうど、2020年東京パラリンピックを目指す強化選手の募集が行われていた時期だった。
あるパラ競技に挑戦し、パラリンピックを目指してトレーニングに打ち込んだ。強化指定選手には選ばれたものの、惜しくも代表入りには届かなかった。しかし、それ以上に大きな財産を手にする。障がいのある仲間たちとの出会いだった。
その中でも忘れられない人物がいる。下半身を失った元パラリンピアンだ。ある日、一緒に食事をした帰り際、その選手は笑顔でこう言った。「マッサージ半額にしてもらってくるわ」。
思わず耳を疑った。最初は笑えなかった。でも、その一言が稲田の心を大きく揺さぶった。障がいを隠すのではなく、笑いに変えている。自分らしく生きている。それまで自分は、障がいを受け入れられていなかった。見えなくなった自分を否定し続けていたのだ。
しかし、その姿を見た瞬間、考え方が一変する。障がいがあることは不幸ではない。楽しむことだってできる。そこから少しずつ、自分自身を受け入れられるようになっていった。現在、自ら障がいを笑い話にできるのも、この出会いがあったからだという。
人生を変えるのは、大きな出来事とは限らない。たった一人との出会い、一言の言葉が、人を前へ進ませることがある。
ブラインドサッカーとの運命的な出会い
パラボートを経験したあとも、稲田は新しいスポーツに挑戦し続けた。もともと球技が好きだったこともあり、ゴールボールにも取り組み、競技の楽しさを知った。そんな中で紹介されたのが、SFIDA世田谷BFCだった。世田谷なら通える、一度体験してみよう——その軽い気持ちが、今の人生につながっている。
初めてのブラインドサッカーは、想像以上に難しかった。ボールが見えない。周囲も見えない。仲間の位置も分からない。サッカー経験もほとんどなかった。それでも不思議と怖さはなかったという。体をぶつけ合う感覚、相手との駆け引き、音だけを頼りにプレーする世界。それまで経験してきたスポーツとはまったく違う魅力があった。
競技を続ける中で、キャプテンも任されるようになる。しかし今年、その役職を若い選手へ託した。「高校生の新キャプテンには、日本代表になってほしい」。その思いから、自ら役職を降りたのだという。自分が前に立つよりも、次の世代を育てたい。そんな思いも、ブラインドサッカーを通じて芽生えた新たな挑戦だった。
声を信じるスポーツ
ブラインドサッカーは、目で見るスポーツではない。耳で感じるスポーツだ。仲間の声、ガイドの声、ボールの音。そのすべてを頼りにプレーする。見えていた頃の記憶を頭の中で組み立てながら、音だけで空間を描いていくのだ。
だからこそ、一緒に長くプレーした仲間への信頼は絶対だという。誰がどこにいるのか、どんな声を出すのか。その積み重ねが安心感になり、プレーにつながる。目で見ることはできなくても、仲間を信じる気持ちは、以前よりもずっと強くなった。それは競技だけでなく、生き方そのものにもつながっている。
伝えたいという思いは変わらない
ブラインドサッカーを続ける理由を尋ねると、稲田は意外な答えを返してくれた。
「勝ちたい気持ちはもちろんあります。チームとしてまず一勝したい」。そのために毎週練習を重ねている。しかし、それ以上に大切にしている活動がある。子どもたちへの絵本の読み聞かせだ。
保育園や小学校を訪れ、絵本セラピストとともに障がいをテーマにした絵本を読み、子どもたちにアイマスクを着けてもらう。一分間だけ静かな時間を過ごし、普段は気づかない音に耳を澄ませる。その後、ブラインドサッカーを体験してもらうのだという。
見えない世界を知るためではない。違いを理解するためでもない。一緒に楽しむためだ。稲田自身もウクレレを演奏し、子どもたちと歌を歌う。その光景を見ていると、あることに気付かされる。音楽を辞めたわけではなかった。形が変わっただけだったのだ。
プロミュージシャン時代は、多くの人へ届けたいと思っていた。今は違う。一人でもいい。目の前にいる誰か一人の心へ届けば、それでいい。その思いが、現在の活動の原点になっている。音楽も、ブラインドサッカーも、絵本の読み聞かせも、すべて一本の線でつながっていた。
居場所があるという幸せ
SFIDA世田谷BFCには約30人の仲間がいる。年齢は高校生からベテランまで幅広い。稲田はチームを家族のような存在だと表現する。勝利だけを追い求める集団ではない。競技だけをする場所でもない。一人ひとりが自然体でいられる場所、それがSFIDA世田谷だった。
だからこそ、競技だけではなく、地域での普及活動や絵本の読み聞かせにも力を入れられる。もし、この活動がなかったら、別のチームへ移籍していたかもしれない。そう話すほど、この場所には特別な意味がある。
競技を通じて社会とつながる。障がいのある人もない人も自然に笑い合える時間をつくる。その積み重ねこそが、自分にしかできない役割だと稲田は感じている。
次の世代へつなぐ挑戦
今年で47歳。競技者としては決して若くはない。それでも、まだ挑戦は終わらない。
自分が活躍することだけが目標ではなくなった。これからは、次の世代へ経験を伝えていくことも、自分の役割だと考えている。その思いから、これまで務めてきたキャプテンを今年、高校1年生の安倍成一郎へ託した。
安倍は都立文京盲学校に通い、SFIDA世田谷BFC創設当初から在籍する生え抜きの選手だ。生まれつき視覚障がいがあり、今年度からはユース日本代表候補合宿にも招集されるなど、大きな期待を集める存在でもある。稲田は、そんな安倍にチームを引っ張っていってほしいと願っている。
自分が前に立つよりも、若い世代が大きく成長する姿を見たい。キャプテンを譲ったのは、決して一歩引いたからではない。未来への挑戦を託したのである。
一方で、プライベートでは音楽も少しずつ再開したいと考えている。趣味として、人生を豊かにするものとして。かつて諦めた夢を取り戻すのではなく、今の自分だからこそ楽しめる音楽を、もう一度始めたいと思っているという。
音楽家として歩んだ時間も、料理人として積み重ねた経験も、ブラインドサッカーで流す汗も、子どもたちと笑い合う時間も——すべてが、今の稲田宗行という一人の人間につながっている。そして、その経験は今度は次の世代へ受け継がれていく。キャプテンを託した安倍成一郎をはじめ、未来を担う選手たちが大きく羽ばたくことも、今の稲田にとって大切な挑戦の一つだ。
自分がゴールを決めるだけではない。仲間が成長し、その先の景色を見ることもまた、大きな喜びになっている。
挑戦は、自分のためだけでは終わらない。誰かへ受け継がれたとき、その挑戦はさらに大きな意味を持つ。
