
窪島剣璽(くぼしま けんじ)
1974年東京都生まれ。学生時代はバレーボールに打ち込み、スポーツを身近に感じて育つ。大学卒業後は大手SIerに入社し、その後ライブドアへ。検索や広告、メディア事業などの領域でビジネススキルを磨き、複数のグループ企業で代表取締役を務めた。
海外で働きたいという思いからブラジル駐在を志望し、赴任中にフレスコボールと出会う。帰国後、一般社団法人日本フレスコボール協会(JFBA)を設立し、協会会長として普及活動を続けている。
生まれ育った環境とスポーツとの距離感
窪島剣璽は東京都で生まれ育ち、学生時代はバレーボールに打ち込んだ。
勝ち負けだけではなく、仲間とつながりながらプレーする感覚が好きだったという。
スポーツに触れてきた実感は、その後の人生においても静かに根を張り続けている。
社会に出た後はITの世界で経験を積み、組織づくりやサービスづくりを学んだ。
その中で共通していたのは、新しいものに触れたい、誰かが喜ぶ仕組みをつくりたいという探究心だった。
ブラジルでの出会い
海外で働きたいという思いを胸に、窪島はブラジルへの駐在を希望した。
赴任中、コパカバーナのビーチで偶然目にしたのがフレスコボールだった。
楽しそうにラリーを続けるペアの姿に興味をひかれ、近くの人に
「これは何という遊びですか」
と尋ねたところ、返ってきた言葉がフレスコボール。
その場でスマートフォンを使って検索したが、日本語の情報は一つも出てこなかった。
「日本にはまだ持ち帰られていないスポーツなのだ」
そう確信し、その場で心が決まった。
この面白さを、日本に持って帰ろう。
ビジネスのためではなく、純粋な興味と“広げたらきっと喜ぶ人がいる”という直感が彼を動かした。
日本では何も形になっていなかった
帰国して改めて調べても、フレスコボールに関する情報は日本に存在していなかった。
道具も、体験できる場所も、競技者もいない。
しかしそれは、窪島にとっては障壁ではなく、ゼロから創る自由だった。
協会を立ち上げ、体験会を開き、用具を揃え、大会の仕組みを整え、徐々に仲間を増やしていった。
少人数から始まった活動は、10年近く経ったいま、全国へ広がり、プレーヤーは6000人を超える。
日本はブラジルに次ぐ規模のフレスコボール大国となりつつある。
その背景には、好きなものを広げたいという窪島の純粋な探究心がある。
フレスコボールというスポーツ

フレスコボールは、ブラジル生まれのペアスポーツだ。
向かい合ってラリーを続けるというシンプルな競技で、強さよりも思いやりが必要とされる。
・相手に返しやすいボールを送る
・ペアの呼吸でスコアが変わる
・年齢や体力を問わず楽しめる
・場所を選ばず、ビーチでも体育館でもできる
勝ち負けがすべてではない。
誰かと協力しながらプレーを楽しむ、そのプロセスに価値があるスポーツだ。
地域に広がるコミュニティ


フレスコボールの普及を支えたのが、JFBAが整備した地域クラブ制度だ。
クラブには幅広い年齢層が参加し、子どもから高齢者まで同じコートでラリーを楽しんでいる。
85歳のお父さんと50代の息子がペアを組むクラブがあれば、小学生が大人と互角に打ち合う場面もある。
社会人が会社や家庭以外のコミュニティを持ちづらい時代に、自然な居場所として受け入れられていく。
窪島にとって、その光景は競技普及以上に嬉しいものだ。
フレスコボールが、人と人のつながりを生む文化として育っている
その実感こそが挑戦を続ける理由になっている。
日本のビーチ文化を前へ

フレスコボールはビーチのスポーツという印象が強いが、実際は公園や体育館でも楽しめる。
この柔軟さは、日本各地で普及しやすい大きな理由の一つになっている。
窪島は競技の枠を越えて、ビーチスポーツ全体を盛り上げる取り組みにも参加している。
その一つが、ビーチゲームズ日本招致プロジェクトだ。
スポーツと地域文化の可能性を広げる新たな挑戦として取り組んでいる。
挑戦はこれからも続く

窪島がフレスコボールに魅了されたのは、ビジネスチャンスではなかった。
誰かが喜ぶ顔を見たい。
面白いと思ったものを広げたい。
その感覚が彼を動かしてきた。
ブラジルのビーチで芽生えた興味は、いまや全国のクラブやプレーヤーの笑顔につながっている。
文化は小さな芽から育つ。
フレスコボールは今まさに、その芽が広がり始めた段階だ。
窪島剣璽の挑戦は、これからも続いていく。
日本に新しい文化が根づく未来を信じながら。
