小坂哲英(こさか・てつひで)


一般社団法人ハンドボールファミリー代表理事。大阪府和泉市出身。郷荘中→三国丘高校→早稲田大学体育局でハンドボールに打ち込む。実業家として活動する傍ら男子クラブチームアルバモス大阪の創設に参画しリーグH参入を実現。現在は東京に女子トップチームを創設するプロジェクトを推進している。

山本純一(やまもと・じゅんいち)


一般社団法人ハンドボールファミリー監事。東京都国分寺市出身。国分寺一中→明星高校→明星大学でハンドボール部GKとしてプレー。卒業後は警視庁に入庁し刑事・公安・組織犯罪対策などに38年間従事。退職後は国分寺でコミュニティカフェ憩い広場びぃだまを運営しながらハンドボール普及活動を続けている。

小山葉子(こやま・ようこ)


一般社団法人ハンドボールファミリー理事。東京都武蔵村山市出身。高校からハンドボールを始め社会人まで競技を継続。2008年から武蔵村山市で小学生向けハンドボール教室の指導を開始し、現在も地域クラブのコーチとして活動。インディアカ日本代表として世界大会出場を目指すスポーツウーマン。

TOKYO SAKURA HCが挑む未来への挑戦

体育館に響くボールの音。

キュッ、とシューズが床をこする音。
ジャンプシュートがゴールネットを揺らす。

2025年、ある夏の日。
東京で女子ハンドボールクラブのトライアウトが行われていた。

コートには、さまざまな経歴を持つ選手たちが集まっている。

大学まで競技を続けてきた選手。
社会人になってからもう一度挑戦しようとする選手。
地方チームへの進路を悩んでいた選手。

それぞれの思いを胸にボールを追っていた。

その光景を見つめていた人物がいる。

小坂哲英。

このトライアウトは、彼が始めた挑戦の一歩だった。

東京に女子ハンドボールクラブを。

その挑戦は、TOKYO SAKURA HCという名前で動き始めている。


東京に女子ハンドボールクラブがない

現在、日本の女子トップリーグであるリーグHには全国各地にクラブが存在する。

富山、石川、岐阜、愛知、三重、大阪、広島、香川、熊本、鹿児島、沖縄。

しかし日本最大の都市である東京を含む関東エリアには、女子トップリーグのクラブが一つもなく、西日本に集中している。

これは他競技では考えにくい状況だ。

サッカー、バスケットボール、バレーボールなどは、地方都市のコンテンツとして愛され、もちろん首都圏には複数のクラブが存在し、多くのファンが観戦する。

一方で東京は、ハンドボールの競技人口が多く、育成環境も整っている。

中学、高校、大学と競技に打ち込む選手は数多い。
強豪校も多く、全国大会で活躍する選手も少なくない。

しかし大学卒業後、競技を続ける場所が東京にはほとんどない。

続けたい。
でも場所がない。

トップリーグでプレーするため、生まれ育った東京を離れる選手もいる。
西日本に拠点を置くチームへ進めば競技は続けられる。

しかしそれは、生活の拠点を移すことでもある。

家族や友人が気軽に試合を見に来ることは難しくなる。
応援してきた仲間たちも、簡単には会場に足を運べない。

東京のハンドボールファンにとっても同じだ。

日本トップレベルの試合を、地元で観る機会がほとんどない。

競技人口は多い。
育成環境もある。
それでもトップの舞台が存在しない。

この矛盾した状況が、多くの女子選手の前に立ちはだかっている。

この壁を壊したい。東京から女子ハンドボールの未来を変えたい。

そう考えた人物がいる。

小坂哲英である。


ハンドボールとともに始まった人生

小坂哲英は大阪府和泉市で育った。

中学でハンドボールと出会い、その魅力に引き込まれていく。

スピード、身体のぶつかり合い、ジャンプシュート。そして緻密なフォーメーションやセットプレー。

ボールを追いかける時間は、人生の中心だった。

高校は大阪府立三国丘高校。

そして早稲田大学体育局でプレーする。

ハンドボールは青春そのものだった。

しかし大学卒業後、小坂は競技の世界から一度離れる。

社会人としての人生が始まった。

営業職としてキャリアを積み、転職を重ねながら経験を広げていく。

人との縁で仕事がつながり、さまざまな企業の創業者と出会った。

ビジネスの現場で学んだのは、人が動く力だった。

40歳手前で起業。

経営者としての人生が始まる。

忙しい日々の中で、ハンドボールは過去の思い出になっていた。

転機が訪れたのは2018年。

大阪で開催された全日本学生ハンドボール選手権だった。

久しぶりに観たハンドボール。

その瞬間、胸の奥に眠っていた感情が動いた。

やっぱりこの競技が好きだ。

そこから、小坂は再びハンドボールの世界に戻っていく。


大阪でのクラブ創設

ハンドボールに戻った小坂は、あることに気づく。

大阪にトップチームがない。

かつて存在したチームは消え、長い空白が続いていた。

それなら、自分たちで作ればいい。

そう考えた。

男子クラブチームアルバモス大阪の創設に関わる。

スポンサー探し。自治体との交渉。
組織づくり。会場の確保。
リーグ参入。

すべてがゼロからの挑戦だった。

クラブを作るということは、想像以上に大変だった。

しかしその経験が、小坂の視野を広げることになる。

スポーツクラブは、競技だけの存在ではない。

地域の文化になるものだ。

人が集まり、応援し、コミュニティが生まれる。

その可能性を、小坂は実感した。

そしてもう一つの課題が見えてくる。

女子ハンドボールの未来だった。


東京という可能性

小坂が次に目を向けたのは東京だった。

東京には選手がいる。

育成環境もある。

特に多摩地域は、日本でも有数のハンドボール強豪地域だ。

それにもかかわらず、トップリーグのクラブが存在しない。

東京にチームがあれば続けられた選手がいる。

小坂はそう確信した。

そして東京で女子クラブを作る挑戦が始まる。


ハンドボールという競技

ハンドボールは世界では非常に人気の高いスポーツだ。

1チーム7人でプレーする球技で、攻守が高速で入れ替わる。

コートサイズは40メートル×20メートル。

ジャンプシュート。
速攻。
身体をぶつけるディフェンス。

スピード、パワー、テクニック。

そのすべてが凝縮されている。

ヨーロッパではアリーナが満員になるほどの人気を誇る競技でもある。

一方で日本では、まだその魅力が広く知られているとは言えない。

しかし一度試合を観ると、その迫力に驚く人が多い。

思ったより速い。
思ったより激しい。

それがハンドボールという競技だ。


山本純一という存在

このプロジェクトは、小坂哲英一人の挑戦ではない。

その想いに共鳴した仲間がいる。

その一人が山本純一だ。

東京都国分寺市で生まれ育った山本は、中学生の頃にハンドボールと出会った。

当時は身体も大きく、自然とチームのゴールキーパーを任されるようになる。

明星高校、明星大学とハンドボールを続け、青春の多くをこの競技とともに過ごした。

ゴールキーパーというポジションは、常にチームの最後尾に立つ。

味方の攻撃を見守りながら、最後の砦としてゴールを守る。

派手さはないが、試合の流れを左右する重要な役割だ。

そのポジションは、山本の性格にもよく合っていた。

大学卒業後、山本は警視庁に入庁する。

刑事課、公安部、組織犯罪対策部。

38年間にわたり、社会の最前線で働いてきた。

事件と向き合う日々。

緊張感のある現場。

ハンドボールとは距離のある人生だった。

しかし、競技への思いが消えることはなかった。

仕事の合間に母校の試合を見に行くこともあった。

そして一つの出来事が山本の人生を変える。

スマートフォンを手にしたことだった。

SNSを通じて、全国にハンドボールを愛する人たちがいることを知った。

日本代表を応援する人たち。
地方で競技を支える人たち。
ハンドボールの魅力を発信する人たち。

その存在に驚いた。

こんなにハンドボールが好きな人たちがいる。

山本は、そこから行動を始める。

日本代表戦を盛り上げる活動。
ファン同士をつなぐ企画。
観客を増やすための取り組み。

SNSを通じて多くの人が参加し、会場を満員にしようという試みだった。

ハンドボールは人をつなぐスポーツだ。

山本はそう確信するようになっていく。

退職後、山本は国分寺にログハウスを建てた。

人生は一度きり。

やりたいことをやろう。

その思いから、妻とともにコミュニティカフェ憩い広場びぃだまを開いた。

ここにはさまざまな人が集まる。

地域の人。
若者。
夢を追う人。
新しい挑戦を始める人。

人と人がつながる場所だ。

そんな山本のもとに、小坂から声がかかった。

東京に女子ハンドボールクラブを作りたい。

山本は迷わなかった。

こんなにワクワクする話はない。
やらなかったら一生後悔すると思った。

山本はこのプロジェクトに加わることを決めた。

広報活動。
地域とのつながり。
人を巻き込む力。

山本の役割は大きい。

ハンドボールの未来を変える挑戦は、競技者だけでなく、さまざまな人生を歩んできた人たちの力によって動き始めている。

小山葉子の現場

もう一人の仲間が小山葉子だ。

東京都武蔵村山市出身。
高校からハンドボールを始め、社会人になってからも競技を続けてきた。

学生時代から身体を動かすことが好きで、スポーツは常に生活の中心にあった。
ハンドボールもまた、人生を形づくる大きな存在だった。

その経験が、次第に指導者としての道につながっていく。

転機は2008年。
武蔵村山市で国体開催に向けたハンドボール普及事業が始まり、小学生を対象としたハンドボール教室が立ち上がった。

小山はその活動に指導者として関わることになる。

最初はボールをうまく投げることもできない子どもたちだった。

それでも練習を重ねるうちに少しずつプレーができるようになり、試合でシュートが決まると満面の笑みを浮かべる。

その瞬間を見ることが、小山にとって何よりの喜びだった。

教室はやがてクラブチームへと発展する。

2010年には武蔵村山市ハンドボールクラブが誕生。
小山はコーチとしてチームづくりに関わり続けてきた。

小学生年代の指導で大切にしていることがある。

勝つことよりも、ハンドボールを好きになってもらうこと。

競技の楽しさを知り、長く続けてもらうこと。

それが指導の軸だった。

実際、教え子たちは成長し、中学、高校、大学へと進んでいく。

東京はハンドボールのレベルが高く、強豪校も多い。

中には全国大会に出場する選手もいた。
大学でも競技を続ける選手がいる。

しかし小山は、その先の現実も見てきた。

大学卒業と同時に競技を離れていく選手たち。

トップリーグのチームが東京にないからだ。

地方のチームに移籍すれば続けられる。
しかし誰もがその選択をできるわけではない。

仕事。
生活。
家族。

さまざまな事情の中で、競技を諦める選手がいる。

指導してきた選手がハンドボールを辞める。

その姿を見るたびに、小山の胸には同じ思いが浮かんだ。

東京にチームがあれば続けられた。

実力があるのに、環境がない。

その現実を、長年指導の現場で見続けてきた。

だからこそ、このプロジェクトは小山にとって他人事ではなかった。

未来の選手たちが、競技を続けられる環境を作りたい。

その思いが、小山をTOKYO SAKURA HCの挑戦へ導いた。

なお、小山は現在も競技者として活動を続けている。

レクリエーションスポーツであるインディアカではシニア日本代表として世界大会を目指し、トレーニングを重ねている。

さらに趣味の登山では日本百名山の登頂にも挑戦中だ。

競技者として。
指導者として。
そして一人のスポーツウーマンとして。

小山葉子の人生は、スポーツとともに歩み続けている。

三人の想い

小坂の挑戦。
山本の情熱。
小山の現場。

三人の人生は違う場所を歩んできた。

しかしハンドボールの未来を変えたいという思いだけは同じだった。


クラウドファンディングの意味

TOKYO SAKURA HCは現在クラウドファンディングを実施している。

だが、それは単なる資金集めではない。

お金がないから募る。

そういう話ではない。

もし一社のスポンサーがすべての資金を出せば、チームは簡単に作れるかもしれない。

しかしそれでは、このクラブはその企業のものになる。

TOKYO SAKURA HCが目指しているのは違う。

多くの人が関わるクラブだ。

地域の人たち。
ハンドボールを愛する人たち。
未来の選手たち。

クラウドファンディングは、その仲間を集めるプロセスでもある。

東京に女子ハンドボールクラブは必要か。

未来の選手のために環境を作るべきか。

その問いを社会に投げかける挑戦でもある。


東京から始まる未来

TOKYO SAKURA HCは2026年4月、本格始動する。

それはゴールではない。

スタートラインだ。

もし東京に女子ハンドボールクラブが根付けば、競技の景色は大きく変わる。

子どもたちは将来の目標を持てる。

大学生は競技を続ける選択肢を持てる。

地域には新しいスポーツ文化が生まれる。

そしていつか。

東京から世界で戦うハンドボールチームが生まれるかもしれない。

東京に女子ハンドボールクラブを。

その挑戦は、小坂哲英という一人の人生から始まった。

そして今、多くの人の未来へとつながろうとしている。

TOKYO SAKURA HCの物語は、まだ始まったばかりだ。


クラウドファンディング挑戦中

https://readyfor.jp/projects/tokyosakurahc

一般社団法人ハンドボールファミリー / Handball Family 代表理事 小坂哲英 note