小川 哲生(おがわ・てつせい)

1997年静岡県静岡市生まれ。小学生時代に病気でサッカーを断念後、アーチェリーをに出会う。中学生で日本代表入り、高校・大学を通じて国内外で実績を重ね、同志社大学アーチェリー部では主将も務めた。東京オリンピック出場を逃すも、ビジネス界からスポーツを盛り上げたいと考え、伊藤忠商事に入社。ビジネス経験を積みながら、東京大学・北海道大学などの大学チームを指導。現在は一般社団法人チームキノウ代表として、スポーツと社会をつなぐ活動に取り組んでいる。


サッカー少年、突然の別れ──「今日からサッカーはできません」

静岡といえば言わずと知れたサッカー王国。その地に生まれた小川哲生が、幼い頃からボールを蹴っていたのは、自然なことだった。将来の夢はJリーガー。清水エスパルスのエスコートキッズを務めた際のピッチの匂い、スタジアムの歓声、間近で見た選手たちの姿は、少年の心を大きく動かした。

しかし、転機は突然訪れる。全国でも名を知られるクラブチーム「SALFUS oRs」で活躍する中、腰の痛みが続く。整形外科で告げられたのは、「二分脊椎症」。生まれつき脊椎に異常がある先天性の病気だった。医師の口から出たのは、「今日からサッカーはやめてください」の一言。

12歳、小学6年生。サッカーしか知らなかった自分にとって、それはあまりにも残酷だった。夢は砕かれ、仲間と会えなくなる喪失感が押し寄せた。


矢が導いた新たな夢──アーチェリーとの出会い

「じゃあ、走らないスポーツはどうだろう」

両親が探し出したのは、家から近くにあったアーチェリー体験教室だった。走らない競技なら、腰への負担も少ないかもしれない。

参加した体験会で、矢が的に当たった瞬間、大人たちが拍手をしてくれた。年配者が多かったからこそ、小学生の小川は特に可愛がられた。初めてだったのに当たる。誰かに認められる。サッカーができない絶望の中で、久しぶりに感じた自信だった。

中学にはアーチェリー部がなかったが、それでも続けたかった。毎日放課後に公共のアーチェリー場に通い、自己流で練習。部活動の先生もいなければコーチもいない。YouTubeもまだ一般的ではなかった時代、自分で考え、工夫して上達していく。

「どうしても強くなりたかった」

競技会に出れば、他校の先生に頭を下げ、練習に混ぜてもらった。大学のアーチェリー部にも足を運び、お願いして練習に参加した。異様な中学生に見えただろう。しかし彼の熱意は、やがて周囲を動かした。

中学3年で日本代表入り。キャデット(U17)の部門で日本記録を打ち立てるまでになった。


指導者なき日々で得た力──“考える競技者”としての成長

高校は清水東高校。県内有数の進学校ながら、アーチェリー部はない。中学時代と同じように、学校が終われば公共の射場へと通う日々。指導者はいない。けれど、それが小川を“自ら考える競技者”へと成長させた。

「誰かに教わるのが当たり前じゃなかった分、情報の価値がものすごく高かった。だからこそ自分で調べ、分析し、どうすればもっとよくなるかを考え続ける習慣が身についたと思います」

高校時代には、韓国で開催された世界ユース選手権で団体銀メダル・個人5位を獲得。高3では全国ランキング1位にも。日々の努力と工夫は、確実に結果として返ってきた。


東京五輪への夢と、叶わなかった代表の座

大学は関西の名門・同志社大学へ進学。ここでようやく“部活として”アーチェリーに取り組む環境を得た。チームでの練習、共に切磋琢磨する仲間、指導者の存在。学生日本一を争うレベルの中でも、清水東出身の“独学アーチャー”は存在感を発揮。全国2位、関西インカレ優勝、キャプテン就任など輝かしい実績を残す。

目指すは東京2020オリンピック代表。しかし、怪我に悩まされ、肝心な時期に自信も喪失。結果を残すことができなかった。

「やれることはやった。だけど足りなかった」

夢が途絶えたあとも、彼は競技を嫌いにならなかった。むしろ、その先の道を考えるようになった。


教えることと、働くこと──複数の肩書を持つ選択

小川は教員になることも視野に入れていた。しかし教育現場の現実や、アスリートが経済的に自立できる仕組みを作る必要性を感じ、まずはビジネスの世界を経験しようと決めた。選んだのは伊藤忠商事。日本を代表する総合商社で、世界を相手にビジネスを展開する現場に身を置いた。

「とんでもなく優秀な人たちと一緒に仕事をして、自分の小ささや足りなさを感じました。でも、それが逆にありがたかった。競技とは違う軸での挑戦でした」

その一方で、コロナ禍にはオンラインで高校生の指導を行い、指導者としての活動も続けていた。現在では、東京大学や北海道大学のアーチェリー部でコーチを務め、若い世代の育成に関わっている。

指導方法も柔軟だ。オンラインを活用し、地方に住む選手とも距離を越えてつながる。技術的なことはもちろん、「考える力」や「自分で調べる姿勢」を育てるのが小川流だ。


アーチェリーを社会へ──「チームキノウ」という挑戦

現在、小川は会社員であると同時に、一般社団法人チームキノウの代表理事としても活動している。

その理念は、「国民総アスリート社会」の実現。これは全員が競技者になるという意味ではない。スポーツとは本来、「楽しい」「夢中になる」もの。その価値を暮らしの中に取り入れ、仕事以外にも人生の彩りを加える存在にしたいという想いがある。

「誰かと競うのではなく、自分のために取り組む“アスリート的な姿勢”が、人生を豊かにすると思うんです」

教育、地域、ビジネス、競技。複数の領域を横断しながら、スポーツの可能性を社会に還元しようとしている。伊藤忠での経験、競技者としての視点、そして“独学”で磨いた柔軟性が、その挑戦の土台にある。


終わりなき挑戦の先に──自分を信じる力を、誰かのために

小川哲生は今、複数の世界を生きている。指導者としての顔、会社員としての顔、そして社会起業家としての顔。けれどその根底にあるのは、「自分で選び、動き、挑戦してきた」一貫した姿勢だ。

失ってしまった夢もある。諦めた道もある。だが、それらの経験が今、誰かの背中を押している。

「スポーツには、人生を変える力があると僕は信じています。だからこそ、その力をもっと多くの人に届けたい」

かつて“走ること”を奪われた少年が、今は社会に向けて弓を引いている。次に矢が放たれるのは、きっと、未来の誰かのために。

チームキノウinstagram / 東京大学洋弓部