本郷 輝(ほんごう・ひかる)

フットサル選手/Web制作フリーランス/ZOTT WASEDA FUTSAL CLUB所属

1998年、北海道札幌市生まれ。小学生からサッカーに親しみ、高校では全国大会を目指して本格的に打ち込む。雪深い冬季には体育館でのフットサルが盛んで、地元・エスポラーダ北海道の試合を観戦して憧れを抱く。大学進学後、フウガドールすみだバッファローズに一度入団するも短期間で退団。その後、関東リーグのZOTT WASEDAで経験を積み、大学卒業後は念願のエスポラーダ北海道でFリーグデビュー。2024年にはバサジィ大分に所属し、数々の困難を乗り越えた。現在は再びZOTT WASEDAに復帰し、Web制作業務とフットサルの両立に挑戦中。

北海道の少年が見た、フットサルへの憧れ

本郷輝が育った北海道では、冬になるとグラウンドが雪に覆われ、外でのサッカーができなくなる。そんな環境だからこそ、体育館でのフットサルが盛んだった。

「当時、アリーナで見るフットサルに憧れていました。子どもながらに、目の前でスピーディーに展開される激しいプレー、盛り上がる会場、ほんとうに素晴らしい雰囲気でした」

室田祐希や水上玄太といった選手たちのプレーに胸をときめかせた少年は、自然と「将来フットサル選手になりたい」という夢を持つようになった。


高校サッカーと受験、18時間勉強の挑戦

高校時代は全国高校サッカー選手権を目指して打ち込んだ。しかし、夢は準決勝で敗れて終わる。燃え尽きた気持ちを振り切り、すぐに目を切り替えた。

「大学進学っていう新しい目標に向けて、自分の性格的に“やるなら徹底的に”ってなりました」

なんと1日18時間の猛勉強。休憩も効率化の対象とし、学習の質にもこだわった。同級生のほとんどは内部進学の環境で、見事に第一志望の筑波大学への現役合格を果たした。

「目標を立てて、そのために何をすればいいか逆算して動く力。それがこのときに身に付きました」

このスキルは後のフットサル人生でも大いに役立つことになる。

夢の始まりと挫折、バッファローズでの3ヶ月

大学進学後、将来はフットサル選手になりたいという思いを抱きながら日々の授業に励んでいた。そんなある日、エスポラーダが東京でトレーニングマッチをするということを知り、観戦に。

「すみだはトップチームではなく若手主体のバッファローズ。エスポラーダ北海道もフルメンバーではないとはいえ、なんとバッファローズが結構な点差で勝ったんです。それを見て“このチームでやりたい”って思いました」

試合後、迷わずスタッフに声をかけて入団を直訴。その場では訝しがられたものの、後日きちんと手順を踏んで入団。しかしそこからが苦難の始まりだった。

筑波から都内の練習場まで片道2時間、学業とアルバイトの両立、そして未経験に近い競技フットサルの動きや決まりごとに苦しむ日々。大学から練習に向かい、終電で部屋に戻ると倒れるように眠る。

「夢を追いかけてるはずなのに、毎日がしんどくて…。本当に心身ともに限界でした」

蓄積した疲労は全身の痛みとなり、メンタルをも蝕みつあった。わずか3ヶ月で退団。自信を喪失し、生活のために夏は引っ越し屋でアルバイト。自分が何をしたいのかわからなくなっていた。

再出発とZOTT WASEDAとの出会い

自分が情けなくてしばらく落ち込んだが、やはりフットサルをしたい。そして縁あって関東リーグに所属するZOTT WASEDAのセレクションに参加。どうにか合格し、再び競技生活が始まった。

「ZOTTの人たちは本当にかっこよかった。仕事も家庭もフットサルも全て全力でやる。そんな大人の男たちに本気で憧れました」

30代のメンバーたちが支えるチームに、新たな若手として溶け込んだ本郷は、プレーの理解を深め、徐々に主力へと成長していった。

「ZOTTでの時間が、未熟だった自分の精神、そして競技者としての土台を作ってくれたと今でも思います」

子どもの頃の夢、Fリーグデビューへ

大学卒業後、かつて憧れたエスポラーダ北海道へ入団。

「子どもの頃、観客席から見ていたチームで、レジェンド選手たちといっしょにプレーできるなんて、本当に夢のようでした」

声援を送った選手たちと肩を並べて戦う日々。しかし、結果は思うようにはついてこなかった。チームは2部降格を喫し、2シーズンで退団。オファーを受けたバサジィ大分へと移籍することになった。

プロクラブの現実と、人生初の大怪我

大分は整備された寮やトレーニング施設を持ち、選手が競技に集中できる環境が整っていた。プロ選手として最高の環境。結果を残さなければ、そこにいる資格はない。全員が高い意識でトレーニングに励む日々。しかし、試合中の接触転倒で左肘の靭帯断裂、剥離骨折という大怪我を負ってしまう。

「プレーできないプロ選手って、こんなにも無力なのかと思いました」

初めての手術。病院のベッドで感じた喪失感。しかし本郷はこの間にリハビリと並行して、SNSやブログでの発信を始める。日本代表選手でもあまりメディアに出ることが少ないフットサル選手。彼の読みやすい文章から親しみやすい人柄が伝わり、一気にフォロワーは急上昇した。

「発信することでいろいろな自分を知ってもらえたのは良い経験になりました」

負傷者だらけのチームで、奇跡を起こしかけた全日本選手権

シーズン終盤、大分のチーム状況はまさに“非常事態”だった。主力選手が次々と怪我で離脱し、迎えた全日本選手権。初戦の登録メンバーはわずか8人。しかも、そのうち3人がゴールキーパー。実質、交代できるフィールドプレイヤーはたった1人というあり得ない構成だった。

「もう笑うしかないっていう感じでした。でも、誰も諦めていなかったんです」

円陣は小さくなった。でも、その輪の中の結束はこれまでにないほど強かった。戦術も再構築。攻撃参加できるGK上原を積極的に使い、守備では引いて守る。攻めさせて無理をせず、少ないチャンスを確実に戦う。

1回戦の相手はアグレミーナ浜松。常に追いかける展開だったが、粘り強く食らいつき、終盤で逆転。4-3で勝利を収めた。

2回戦の湘南ベルマーレ戦では、地元ファンの声援が後押し。先制し、終盤相手の猛攻に押されながらも全員で体を張り続け、虎の子の1点を守り切って勝利を手にした。

そして迎えた準々決勝の相手は、絶対王者・名古屋オーシャンズ。誰もが「この人数じゃさすがに無理だろう」と考えた組み合わせ。しかし大分は前半に先制されながらも追いつき、逆転する。満身創痍の大分の戦い方は、王者のリズムを狂わせる。

試合終盤、スコアは4-3で大分がリードしていた。

「相手のパワープレー(GK不在で全員攻撃)は永遠に続くような圧力。みんなとっくに体力の限界を迎えていたと思います。それでも本当に勝てるかもしれないと心が震えました。」

しかし、その奇跡は最後の最後で潰えた。残り1分を過ぎ王者が底力を見せ、怒涛の連続得点でひっくり返された。

「本当に悔しかった。でも、今振り返ると、それ以上に誇らしいとも思える。美談にしちゃいけないけど、あの人数で、よくここまでやったなって」

チームがひとつになり、戦い抜いた数日間。本郷にとってこの経験は、人生で最も濃く、糧となる瞬間の一つとなった。


新たな挑戦、そしてZOTTへの帰還

1年で大分を離れ、東京へ。Web制作やSEOの仕事は短期間で紹介を中心に顧客を獲得し成長。デザイナーやコーダー、ライターともパートナーを組み、組織化を始めている。大学生のインターンの頃からコツコツと続けた結果、現在は法人化を見据えた体制づくりに本格的に取り組んでいる。

そして、ZOTT WASEDAへの再入団。

「かつて憧れた“カッコいい大人たち”の背中を、今度は自分が見せる番。仕事もフットサルも、全力で向き合っていきたい」

平日はWeb制作業者として、企業のコーポレートサイトや広告記事の制作、SEOコンサルティング、採用マーケティングの支援など幅広い業務に取り組み、夜はフットサルの練習に汗を流す。

「日中は頭をフル回転、夜は身体をフル稼働です(笑)」

ZOTTは学生から社会人まで幅広いメンバーが在籍し、それぞれが本業を持ちながらフットサルと向き合っている。本郷もまた、その中の一人として、両立の難しさと意義を体現している。

「フットサルをしているからこそ、仕事にも全力になれる。ZOTTはそれを体現するチーム。日々、全力で取り組むことの価値を改めて感じています」

本郷輝、26歳。彼の挑戦は、まだ始まったばかりだ。


画像提供・取材協力 エスポラーダ北海道 / ZOTT WASEDA

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