
多胡英子(たご えいこ)
一般社団法人 日本ネットボール協会 会長
1949年生まれ。群馬県安中市出身。日本体育大学体育学部卒。36年間にわたり公立小・中学校で保健体育教員として勤務。女子バスケットボール指導者として国体、全国教員大会などで数々の実績を残す。2010年にネットボールと出会い、日本での競技普及・代表強化を牽引。2026年アジア大会を最後にヘッドコーチを退き、会長として活動に専念予定。
ネットボールとは何か そのルーツと広がり

ネットボールは、バスケットボールをルーツに持つ競技だ。19世紀末、バスケットボールが誕生した直後、女性でも安全にプレーできる競技として派生し、主にイギリス、オーストラリア、ニュージーランドを中心に発展してきた。
現在では、特にオーストラリアとニュージーランドで国民的スポーツとして定着し、学校体育、地域スポーツ、そして熱狂的なファンを持つトップレベルのプロリーグまで幅広い層に親しまれている。英連邦諸国を中心に世界中へ広がり、国際大会も定期的に開催されている。
一方、日本ではまだ競技人口は多くない。多胡の体感では150人に満たない規模で、全国に6〜7チームが点在する段階だという。
ルールの特徴 なぜ誰もが参加できるのか
ネットボール最大の特徴は、ドリブルが存在しないことだ。ボールを持ったら、立ち止まり、パスでつなぐ。自然と視線は下がらず、周囲を見て判断する力が求められる。
コートは3分割され、7つのポジションそれぞれに動ける範囲が決められている。全員が同じ動きをする必要はなく、体力、身長、得意不得意に応じて役割を担える。
シュートができるのは決められたポジションのみ。チーム全員が丁寧にボールを運び、最後はシューターに託す。シュートが決まれば、自然と拍手や声が生まれ、全員で喜び合う。
得点は1点制でシンプル。審判や指導も複雑になりすぎず、学校体育にも取り入れやすい。
バスケットボールとともに歩んだ半生
多胡英子の原点は、バスケットボールだった。幼少期から体を動かし、高校ではインターハイに出場。日本体育大学でも競技に打ち込み、前十字靱帯断裂という大きな怪我を経験しながらも、競技と向き合い続けた。
教員となってからは、女子バスケットボール部の指導を中心に、県大会、関東大会、国体へとチームを導く。群馬教員女子バスケットボールチームの監督として全国上位を複数回経験し、勝つための組織づくり、育成、強化を現場で学んできた。
一方で、競技を深く知るからこそ、疑問も募っていった。
バスケットボールは魅力的だが、学校体育としては難しさも多い。ドリブルやシュートは技術習得の壁が高く、教える側にも専門性が求められる。ゴールの高さは固定され、年齢や体格による不利が生まれやすい。ルール変更が頻繁で、現場が追いつかないこともある。
管理職への道を歩みかけ、競技や現場から離れた時期には心身を崩した。それでも最終的に彼女が選んだのは、肩書きではなく、体育とスポーツの現場だった。
定年後に出会った運命の競技

定年退職後、声をかけられて初めて知ったのがネットボールだった。60歳を迎えるまで存在すら知らなかった競技である。
当初は戸惑いもあった。しかし、競技を理解するにつれ、長年抱いてきた違和感が解消されていく。バスケットボールで感じていた課題、つまり公平性、教えやすさ、誰もが参加できる設計。それらを、ネットボールはすでに内包していた。
世界を見て確信した未来像
多胡は迷いを断ち切るため、オーストラリアへ渡る。ネットボール世界一の国で、本物を見てから決めようと考えた。
そこで目にしたのは、競技レベルだけではなかった。広大な公園に整備された、数十面のネットボールコート。シンプルなゴールとライン。ボールさえあれば、老若男女が自然に集い、思い思いにプレーしている光景だった。
日本の公園にも、様々なスポーツ施設はある。だが、ネットボールのコートは特別な設備を必要としない。それゆえ、日常の中に溶け込みやすい。
シンガポールで観戦した世界選手権では、オーストラリアとニュージーランドの決勝戦に衝撃を受ける。ドリブルがないからこその圧倒的スピード感、1点を争う緊張感、そしてチーム全員で勝利を分かち合う姿。
この競技には、未来がある。そう確信した瞬間だった。
つばきJAPAN、日本代表と現実的な課題

ネットボール日本代表の愛称は、つばきJAPAN。粘り強く、負けず、静かに力を蓄えながら世界を目指す。それが、この名前に込められた多胡の願いであり、日本代表のアイデンティティだ。日本はアジア大会に継続的に挑戦してきた。最高順位は7位。しかし、競技人口、環境、経験値を考えれば、アジアのトップはまだ遠い。
それでも、多胡は歩みを止めない。2018年には日本初の車いすネットボールキャンプを開催。2019年にはアジアユース選手権を日本に招致し、開催を成功させた。
遠征費、航空券、宿泊費、審判派遣費。多くは自腹、あるいは支援者の善意に支えられてきた。それでも続けてきたのは、競技の価値を信じているからだ。
オリンピックへの道 競技普及とスポンサーという挑戦

2032年ブリスベンオリンピックでネットボールが採用され、日本代表がその舞台に立つ。その夢を現実にするためには、越えなければならない壁がいくつもある。
競技の普及、競技人口の拡大、そして日本代表チームの継続的な強化。今の日本は、まだアジアのトップに手が届く段階ではない。競技を知る人を増やし、学校や地域に根付かせ、育成年代から代表まで一本の流れをつくる必要がある。
そのために欠かせないのが、スポンサーやパートナーの存在だ。遠征費、育成環境、指導体制、競技を広めるための広報活動。どれも情熱だけでは続かない。
多胡英子は、指導者としての役割を次世代に託しながら、協会会長として新たな挑戦に踏み出している。それは、ネットボールの価値を社会に伝え、共に未来をつくる仲間を増やすことだ。
オーストラリアの公園で見た、誰もが自然に集い、老若男女が楽しむネットボールの風景。あの光景を、日本でも当たり前にしたい。ネットボールは、特別な施設を必要としない。シンプルなコートとボールがあれば、人と人をつなぐことができる。その可能性を信じ、競技の未来に共感してくれるスポンサー、パートナーとともに歩んでいきたい。
競技を広げることは、夢を広げること。多胡英子の挑戦は、いま指導の現場から、社会そのものへと広がっている。

