
檜山 昇吾(ひやま しょうご)
1993年生まれ、茨城県出身。小学1年でサッカーを始め、駒澤大学卒業後、サッカーからフットサルに転向。Fリーグのバサジィ大分でプロキャリアをスタートし、以降シュライカー大阪、フウガドールすみだでプレー。現在は立川アスレティックFCに所属し、GKとしてチームを支える。並行して、立川市のIT企業株式会社テイルウィンドシステムに勤務。自販機事業やクラブ連携プロジェクトを担当するなど、フットサルと仕事の両立に挑んでいる。
サッカー少年からキーパーへ
夢を抱いて掴んだ最初の挑戦
茨城県で生まれ育った檜山は、小学1年生のときに隣町のサッカークラブに入団した。地元の小学校にはサッカーチームがなく、週2回送迎してもらい通っていた。コーチはボランティアの父兄たちという、本当に地域に支えられた環境だった。自由で温かく、サッカーが純粋に楽しいと感じられる場だった。
最初はフィールドプレーヤーとしてプレーしていたが、2002年のワールドカップでオリバー・カーンの姿を見て以来、ゴールキーパーに憧れるようになる。「キーパーがやりたい」とお願いしたが、既にGKがいたため叶わず。
そして中学に入った檜山はサッカー部に入部。キーパーを志望し、そのとき初めて自分のグローブを買ってもらったという。「つけた瞬間、心が震えた」と笑う。それからは「毎日キーパーをすることが楽しくてしょうがなかった。授業中もどうしたらキーパーが上手くなるか考えていた」というほど、自分の中の何かが明確に変わった瞬間だった。
駒澤大学で味わった
勝てない日々と組織の厳しさ
中学・高校と順調にステップアップし、水戸商業高校ではインターハイにも出場。大学は名門・駒澤大学を選んだ。だがその環境は想像を超えて厳しかった。
毎年のようにJリーガーを輩出するチームながら「サッカーだけではダメ、学生の本分は学ぶこと」と徹底されていた。「試合に出れば良しではなく、学生とは何か?」ということを常に考えさせられる組織だった。
目立った成績を残せた訳では無いが、一方でその経験が今の自分を形づくっていることも事実だという。どんな役割であっても全うする姿勢、組織の一員として振る舞う責任感、そしてどこかで自分を俯瞰する力。それらはすべて駒大時代に培われた財産だった。
突然のフットサル転向
バサジィ大分で始まった第二の競技人生
大学卒業を控え、檜山はしばらく進路に迷っていた。サッカーを続けるのか、引退して就職するのか。そんなタイミングで、大学のコーチを通じて競技フットサルへの誘いが届いた。相手はサッカーからフットサルに転向し、府中アスレティックFC、そしてバサジィ大分を率いていた伊藤雅範氏から「練習に来てみないか」と。
フットサルのルールすらほとんど知らなかったが、「面白そうだ」と感じた直感に従い、練習参加を決意。そのまま正式に加入が決まり、プロとしての競技人生が再スタートした。
だが、甘い話ではなかった。最初の数カ月は試合どころか、紅白戦すら出してもらえない日々が続いた。チーム内の練習ではアップをしてシュートを受けてそれで終わり。練習後に一人でコーンや止まったボールに対してキーパーの基礎練習をする日々が続いた。
それでもあきらめずに努力を重ね、1年目の終盤から少しずつ出場機会を経て、3年目にはキャプテンにまで成長。
バサジィ大分での4年間は、檜山にとって「自分の競技者としての基礎ができた場所」だと語る。
大阪での飛躍とすみだでの苦悩
代表入り、そしてケガとの闘い
さらなる成長を求めて移籍したのが、Fリーグの名門・シュライカー大阪だった。大阪を選んだ理由は明確だった。「GKコーチに定永久男さんがいたから」。熱血漢として知られる定長コーチのもとで、技術だけでなくマインドも鍛えられた。
その成果はすぐに現れ、日本代表に選出。プレーオフ決勝にも出場し、GKとして充実の時期を迎えた。
しかし3年目、思わぬケガに見舞われる。戦線離脱が続き、4年目はほとんどピッチに立つことができなかった。もどかしさと焦り、そして悔しさ。自身のキャリアにとって大きな転換点となる時間だった。
九州、大阪で長くプレーしたが、故郷に近い関東でプレーしたいと東京・墨田区を本拠地とするフウガドールすみだだった。
「ハイレベルなGK争いができ、選手も、スタッフも、すごく人間味があって良いチームだった」と語る一方で、価値観の違いを感じる場面も多かった。プレーヤーとしてではなく、“人”として何を大切にすべきかを考えるようになったのも、この時期だった。
再び勝負の場へ

立川アスレティックFCとの出会い
そんな檜山に再び火をつけたのが、立川アスレティックFCの比嘉リカルド監督の存在だった。かつてシュライカー大阪でも共に戦った指揮官からの声が、再出発のきっかけとなった。
最初は「比嘉さんとまたやりたい」という気持ちが大きかった。しかし、チームの雰囲気や文化に触れる中で、その気持ちは「このクラブのために力になりたい」という想いに変わっていった。
特に心を動かされたのが、チームが大切にしているアイデンティティだった。「勝つために必要な厳しさや競争そして要求、すなわち常勝軍団のマインド」。立川にはそれが根付いていた。クラブのため、仲間のため、地域のために戦う姿勢が、檜山にとっては懐かしく、最も身を置きたい環境であった。
初めての社会人経験 テイルウインドシステムでの挑戦

立川への移籍に合わせて、檜山は新たな挑戦を始めた。立川市に本社を構えるIT企業「テイルウインドシステム」への入社だ。
人生初の社会人経験。PC操作、メール、営業、プレゼン資料作成、すべてが初めてだった。それでも少しずつ業務に慣れ、いまでは自販機事業やアスレの企画にも携わっている。
「社会人って本当にすごいと思う。リスペクトしかありません」。そう語る檜山にとって、会社の人々が試合を観に来てくれること、応援してくれることは、何よりの励みになっているという。
立川の街とともに歩む

これからも挑戦を続ける
これまでは「自分のため」にプレーしていた檜山。今は、「誰かのために、地域のために」力を尽くしたいと思っている。
立川という街でプレーし、働き、暮らすこと。その中で得られる喜びや出会いは、これまでとはまったく違う意味を持っている。
「立川でフットサルを続けたい。そして、このクラブの価値をもっと高めていきたい」。選手としても社会人としても挑戦を続ける檜山昇吾の物語は、これからも進化を続けていく。
画像提供:立川アスレティックFC